一心時と真田幸村









 通天閣の北側を歩いていると、真田幸村戦士跡の墓を発見しました。PCで調べた所、以下を記載します。
 真田幸村(本名:真田信繁)は、伊達政宗と同じ1567年生まれ。
 戦国BASARAのキャラクター設定では、伊達政宗より年下という設定のようですが、実際、伊達政宗が1567年9月5日生まれと判明しているのに対し、真田幸村は誕生日が正確に分かっていないため、伊達政宗より真田幸村のほうが若干お兄ちゃんという可能性もあります。
 
 1573年、幸村が6歳のときに武田信玄は亡くなってますからもっと言えば、戦国BASARA英雄外伝では「長篠の戦い武田信玄が負傷。真田幸村がリベンジのため本能寺へ・・・」というストーリーがありますが(伊達政宗の外伝ストーリーより)長篠の戦いで武田軍が織田軍に敗北したのは史実どおり。
ただし、このときの武田家当主は信玄の息子である武田勝頼です。(だって長篠の戦いって1575年だもん。しかも幸村はまだ8歳)

 大阪夏の陣(1615年)では、真田幸村率いる真田勢が敵軍総大将である徳川家康の本陣に斬り込み、家康に自害を覚悟させたという話は有名。

 また、大阪夏の陣の前年、大阪冬の陣(1614年)では、真田幸村は豊臣軍の篭城作戦に反対。結果的には豊臣軍は篭城策を取り、大阪冬の陣を経て豊臣は滅亡することになりますが、このとき真田幸村の言うとおり積極的に攻めていれば歴史は変わっていたとも言われています。

 長篠の戦い(1567年)以後、武田家が滅亡すると、真田家(当主は幸村の父・昌幸)は織田信長に恭順。
 本能寺の変の後、豊臣秀吉の傘下となった真田家は、関が原の戦い(1600年)でも西軍に属することになります。

 中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍を上田城にて迎え撃った真田軍は奮闘を見せ、手こずった徳川秀忠は途中で上田城攻略を諦めて関が原に向かいますが、結局、関が原の戦いには間に合いませんでした。


 知略家であった父・真田昌幸と共に活躍を見せた幸村ですが、真田幸村の名が知れ渡るのは、何と言っても1614年から始まる大阪の役です。

 大阪冬の陣では、大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に、かの有名な出城(砦のようなモノ)真田丸を建造。
 真田幸村の兄・信之が徳川軍にいたこともあり、当初は「幸村のヤツ、徳川に寝返るつもりじゃね?」と豊臣の武将たちに警戒されていましたが、いざ戦になってみれば真田幸村真田丸が大活躍。
挑発に乗って攻め込んできた徳川の武将たちを散々に打ちのめし、徳川軍に大ダメージを与えました。(真田丸の戦い)
 当然、そんな危険な代物を徳川軍が放置しておくはずもなく、大阪冬の陣の講和条件として取り壊されてしまいます。
 
 そして翌年、大阪夏の陣へ突入。
お待たせしました。ここでついに史実でも真田幸村VS伊達政宗が実現します。

 1615年、現在の大阪府藤井寺市にあたる道明寺村付近で行なわれた道明寺の戦いです。

と言っても、このときの伊達政宗は総大将ではなく、道明寺の戦いにおける幕府軍総大将は家康の六男である松平忠輝
伊達政宗松平忠輝の後見役として従軍していました。

 また、実際に真田幸村が率いる部隊と戦ったのは、残念ながら(?)伊達政宗本人ではなく、伊達軍先鋒の片倉重長(竜の右目・片倉小十郎の嫡男。小十郎は病のため従軍できず)でした。

 道明寺の戦いでは、真田VS片倉の激しい銃撃戦などがあり、真田勢は一時的にではありますが、片倉勢を押し返し軍を後退させることに成功。
その後、真田幸村大阪城へ撤収することになりますが、勝ち戦を続ける真田勢の強さに徳川軍は攻撃を自重する羽目に。
つまりビビって安易に攻撃を仕掛けられなくなったワケですが、ここでも幸村の名言炸裂。

 敗戦の色が濃くなる豊臣軍。最後の手段として真田幸村毛利勝永明石全登と共に徳川本陣に攻め込む作戦を立てます。
が、毛利軍の前衛武将が勝手に射撃を始めてしまったことから作戦は破綻。
 真田幸村は正面から徳川家康の本陣に決死の突撃することになりました。
前述のとおり、幸村は凄まじい攻撃を見せ、家康に自害をも決意させるほどの活躍を見せましたが、数の上では圧倒的に不利。
追い詰められ、四天王寺近くの安居神社大阪市天王寺区)の境内で、傷ついた味方兵士の看病をしていたところを襲われ、ついに真田幸村は命を散らすこととなりました。享年49歳。

 翌年には豊臣秀頼淀君大阪城内で自害し、大阪城も炎上。徳川軍の勝利で、大阪の陣は終結することとなりました。

 が、実は、このとき真田幸村は生きていたという伝説が残っています。

 幸村には多数の影武者がいたため安居神社で死んだのは影武者であり、本物の真田幸村は、豊臣秀頼淀君大阪城から救い出し、紀州から薩摩の島津家領内へ逃げ延びた、というもの。

 伝説はあくまでも伝説ですが、実際に「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田が連れて来て、退きも退いたよ加護島へ」という童歌があったり、現地には真田家家紋(六文銭)の付いた墓があるそうです。

 

 大阪夏の陣で豊臣方について徳川の大軍と互角に戦った真田幸村の名言です。

 南河内・道明寺の戦いで殿軍(しんがり)を務め、伊達政宗が率いる騎馬鉄砲隊を打ち負かしたとき、幸村が言い放ったのが上記の言葉です。

 「関東の軍は100万人もいるのに、男らしい者は1人もおらん。」といった意味でしょうか。豪勇で鳴らした幸村らしい言葉と言えるでしょう。

 大阪夏の陣では、幸村が男らしいと思えるエピソードがあります。ある日、徳川方から幸村に寝返りの誘いがかかります。内容は「徳川方に寝返って勝利した暁には、10万石の大名に取り立てることを約束する。」といったものでした。

 しかし、幸村はこれを一蹴。「(豊臣)秀頼様に召し出されて一軍を預かる身にまでしていただいたのはまことにありがたいこと。たとえ1000石でもご奉公したい。」と、使者に伝えたそうです。すごく律儀ですね。

 さらに2度目の調略の矛先が幸村に向けられます。「徳川方にお味方くださるなら、信濃一国を差し上げよう。」と破格の条件が提示されましたが、幸村は話も聞かずに使者を追い返したとのこと。「ワシを馬鹿にするな」といった感じでしょうか。

 とにかく、このエピソードを見ても、幸村が律儀で潔いことがわかります。と同時に徳川方が幸村を高く評価していたことも伺えます。戦国時代は損得で動くことが多かっただけに、幸村の行動は人間として生きるうえで、たいへんお手本になるのではないでしょうか。

merci-beaucoup-k-t